父の戦後
終戦を九州で迎えた父は、復員して静岡の実家に帰った。
しばらくぶらぶらしていたら、
教員の仕事があると言われて、
理科と数学を教えることになった。
あまりやる気のある教師ではなく、
自然観察と称して、海で遊んだりしていたと聞いたことがある。
いざ、成績をつける段になって、
当時は、順位をつける相対評価だったのだが、
一定以上に理解していれば全員「甲」にしていたので、
校長に叱られた。
「だったら辞めます」
やりたくてやっていたわけではなかったので、
あっさりと、教師を辞めて上京した。
その後は、家電メーカーの研究所で、
電気部品の開発の仕事に就いた。
部品の小型化に成功して、
それまで十数センチあった部品の大きさを大豆粒ほどにできた。
研究のパートナーは、大卒だったので、
その研究を論文にして発表し、
高卒だった父は、その特許を取得した。
二人で研究所を退職し、
父は、会社を設立し、
特許をもとに作った新製品を売り歩いた。
パートナーの方は、大学の教授になり、
後に、学長になったそうだ。
しばらくぶらぶらしていたら、
教員の仕事があると言われて、
理科と数学を教えることになった。
あまりやる気のある教師ではなく、
自然観察と称して、海で遊んだりしていたと聞いたことがある。
いざ、成績をつける段になって、
当時は、順位をつける相対評価だったのだが、
一定以上に理解していれば全員「甲」にしていたので、
校長に叱られた。
「だったら辞めます」
やりたくてやっていたわけではなかったので、
あっさりと、教師を辞めて上京した。
その後は、家電メーカーの研究所で、
電気部品の開発の仕事に就いた。
部品の小型化に成功して、
それまで十数センチあった部品の大きさを大豆粒ほどにできた。
研究のパートナーは、大卒だったので、
その研究を論文にして発表し、
高卒だった父は、その特許を取得した。
二人で研究所を退職し、
父は、会社を設立し、
特許をもとに作った新製品を売り歩いた。
パートナーの方は、大学の教授になり、
後に、学長になったそうだ。