大戦の記憶 その5
戦争体験を語らなくなった母に代わって覚書として記す。
戦時中、女学生だった母は、
学校で授業を受ける代わりに、軍服を縫っていた。
仕事は、パーツごとに分けられており、
毎日同じ部分のミシン掛けをさせられていた。
服の作り方を覚えたかった母は、
他の生徒と一緒に工場の監督に頼んで、
パーツごとではなく、
1着丸ごとを一人で作るように作業を変更してもらった。
そうすれば、服の作り方を覚えることができるので、
単純作業を続けるよりもやる気も出て、
効率も上がると説得したのだそうだ。
竹やりの訓練などは嫌だったが、
軍服を縫うのは嫌ではなかったと母は言っていた。
そうして服の作り方を覚えた母は、
敗戦後、女学校を卒業し、服飾の専門学校へ進学した。
父と結婚してからは、自宅の玄関先を洋装店に改装して、
女学校時代の友人と二人で洋裁店を営んでいた。
当時、まだ小さかった私は、お手伝いと称して、
糸巻きの糸を全部10センチほどの長さに切ったり、
出来上がったワンピースの背中を縦にハサミでジョキジョキ切ったりと、
とんでもない悪戯ばかりしていたらしい。
その度に、父が同じ生地を探して駆けずり回ったり、
お客に謝ったりしていたと、母によく聞かされたが、
全く記憶にない。
戦時中、女学生だった母は、
学校で授業を受ける代わりに、軍服を縫っていた。
仕事は、パーツごとに分けられており、
毎日同じ部分のミシン掛けをさせられていた。
服の作り方を覚えたかった母は、
他の生徒と一緒に工場の監督に頼んで、
パーツごとではなく、
1着丸ごとを一人で作るように作業を変更してもらった。
そうすれば、服の作り方を覚えることができるので、
単純作業を続けるよりもやる気も出て、
効率も上がると説得したのだそうだ。
竹やりの訓練などは嫌だったが、
軍服を縫うのは嫌ではなかったと母は言っていた。
そうして服の作り方を覚えた母は、
敗戦後、女学校を卒業し、服飾の専門学校へ進学した。
父と結婚してからは、自宅の玄関先を洋装店に改装して、
女学校時代の友人と二人で洋裁店を営んでいた。
当時、まだ小さかった私は、お手伝いと称して、
糸巻きの糸を全部10センチほどの長さに切ったり、
出来上がったワンピースの背中を縦にハサミでジョキジョキ切ったりと、
とんでもない悪戯ばかりしていたらしい。
その度に、父が同じ生地を探して駆けずり回ったり、
お客に謝ったりしていたと、母によく聞かされたが、
全く記憶にない。